人生の潤いと共に

主に本について書いてます。特に文学、哲学、学術書についてです。たまにそれ以外のことを言ったり、自論を書くかもしれません。まだ始めたばかりなので記事は少ないですが、一読してくだされば幸いです。

新年のご挨拶 2020年

明けましておめでとうございます。

最新の記事を書いてから大分経ってしまいましたが、まだ去年からの忙しさが続いてまして...

最低でも5月ぐらいには再開して行こうと思います。

ネタはたっぷりありますので、今しばらくお待ちくださいm(._.)m

哀しき数奇な人生に苦しみつつも、整然と生き貫いた女性詩人”アンナ・アフマートヴァ”『レクイエム』を読んで

ロシア二十世紀を代表した詩人といえば、マヤコフスキーアンナ・アフマートヴァ

後々彼らが名声を馳せるようになると、批評家はそのように彼らを二極の存在として見なした。

甘い賞賛と捻くれた嫉妬紛いの批判と共に、彼らはロシア文学の文壇で知らない者はいないほどだった。

今回はアンナ・アフマートヴァの人生と作品について触れていく。

 

ロシアの詩人にはそんな明るい死はかなえられぬ

弾丸が翼もつ心に天の境界を開くか

しゃがれた恐怖が毛深い手で

胸から海綿のように命を絞りだす 

 

 

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アンナ・アフマートヴァ、はウクライナ南部のオデッサ近郊にて五人兄弟の三番目の娘として生まれた。彼女の父は海軍技師で性格は厳格であった。程なくして両親は離婚し、幼少期はその父のもとで暮らすことになるが、彼女の幼少期は抑圧的な絶対者によって幸福とはかけ離れていた。父親が退官した際にサンクトペテルブルクへ移り住む。ここで彼女は”ラシーヌプーシキン”の作品に触れて自身でも11歳頃から自作を始める。

しかし、父親はこれを当時フランスなどで一世を風靡していたデカダンに染まった。(要はふしだらな集団の活動に我が子がハマってしまったと考えて)

父親はひどく娘の創作活動を嫌っていた。その為彼女は本を出版する際に、父性ではなく祖父母のアフマートヴァを使い始めたのが始まりとなった。

  • 自由気ままな奔放さを持つ詩人との結婚

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 アフマートヴァは大よそ貧相なまだ力を出し切れていない芸術家諸君同様に、最初は売れない惨めな生活をするのだろう。しかしそうはならなかった。
それは彼女が同業者の詩人と仲が良かったのが大きな要因といえる。
夫のニコライ・グミリョーフは新進気鋭の新派”アクメイズム”の中心人物として活動していた。この派は当時ロシア帝国を席捲していた象徴主義を批判的に見た考え方である。象徴主義が空想的でわかりずらい神秘主義の傾向を強めたのに対して、彼らのアクメイズムは視点を自らの世界に置いて、古典から学んだ技法を取り入れた。
彼女の作品にもロマン主義のような兆候が素朴な空間で表現されている。
第一詩集『夕べ』は多くの新進気鋭の作家に賞賛され、好意的に迎えられた。ここからロシア文学では銀の時代と呼ばれる新たな黄金時代がひらける。
しかし、夫のグミリョーフはこれを快く思っていなかった。彼は同じアクメイズムの同士ではあったが、あくまで彼にとってアフマートヴァは創作意欲を掻き立てるミューズでしかなく、そのミューズ自身の語りには好意的なまなざしが向けられることはなく、
突如アフリカへ旅立ってしまう。『夕べ』はそんな冷たい仕打ちをする夫に対しての悲恋を赤裸々に嘆いているのである。
  • 革命の波乱に巻き込まれる文壇とアフマートヴァ

グミリョーフと事実上破局状態となった時。世界は大きな潮流を孕んでいた。

第一次世界大戦でヨーロッパのみならずアジアも含めた初めての大戦争が繰り広げられていた。帝政ロシアセルビア王国を助ける形で参戦していたが、初の科学技術を結集した総力戦に戦況は芳しくなかった。日露戦争で負けたりと勃発前から凋落の兆しを見せていた極寒の帝国はすでに国民に対して十分な措置を施せていなかった。

日々の糧にすらありつけない市民はデモを起こしたが、戦争中で焦ったツァーリー側の軍団に無慈悲にも撃たれ死んでいく。血の日曜日事件によって国民の怒りは沸騰し、一回目の革命が起こり、帝政が倒された。

それでも戦争継続を主張するケレンスキー達に対して、ドイツからレーニンがやってくる。ボリシェビキレーニン赤軍)対ロシア政府(白軍)の内戦がこの最中勃発する。白軍の中にはアフリカに行っていたグミリョーフが義勇兵として参加していた。

既に1918年に正式に離婚していたアフマートヴァは新たにアッシリア学者のシレイコと再婚する。芸術家同士の結婚に苦い辛酸を味わった彼女はお堅い学者なら家庭を大事にしてくれると考えていたといわれている。

しかしシレイコはその堅苦しさがアフマートヴァにとって裏目に出た人物だった。

彼はアフマートヴァの創作活動を望まず、彼女の詩をサモワールを焚きつけるためのちり紙同然に扱った。父親に似た古い習慣から培われた男の行動に、彼女の創作意欲は低下していき1篇の詩さえ世の中に出さなくなった。

1921年短い苦しい結婚生活に別れが訪れた。彼女はまたサンクトペテルブルクで創作活動を再開する。同年共産党政権子飼いの秘密警察がグミリョーフを射殺する。

反革命的な創作活動をする作家に対する見せしめだった。

なぜグミリョーフが捕まったのか。理由は自明のことだが彼は白軍にいたにも関わらず共産主義思想に感化されて自らロシアに帰ったともいわれている。最後まで不思議な男であった。

20年代に入ると異なる潮流を持つ者としてロシア・アヴァンギャルド未来派と称される前衛的な作風が注目される。特に最も注目されたのがマヤコフスキーであり、全く新しい唯我独尊のスタイルの彼と、古典芸術に根差した伝統を継承するアフマートヴァは批評家の格好の的となった。

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マヤコフスキー自身はアフマートヴァの実力を認めていたものの、未来派は伝統とは決別する姿勢を採っていたのでしばしば彼女を批判していた。
しかし多くの詩人のけたたましい勢いも為政者の前では空前の灯と化す。
スターリンの台頭である。共産主義治世下では反乱分子は排除の対象だった。
マヤコフスキーは30年に不審な死を遂げる。理解者であったマンデリシュタームは流刑となり、エセーニン、ツヴェータエワ、ブロツキー、パステルナーク。詩人ではないがゴーリキー、ナブコフなど挙げ連ねることのできない数多くの文学者が当局によって活動を制限させられた後に、死、流刑、国外逃亡を余儀なくされている。
国内に留まり生き残ったのはこの中ではブロツキー、パステルナークと彼女の三人しかいない。
アフマートヴァもまた厳しい環境の中創作活動に身を粉にして挑んでいた。
  • 幽かながらにもはっきりと聞こえる人民の声『レクイエム』

長い前置きになったが、ようやく作品に触れていく。『レクイエム』は彼女自身の鬱憤であり全人民の代弁でもある作だ。
そう今日では評されている。”レクイエム”とは元をたどればラテン語で”安息を”という意味で死者を慰める鎮魂歌である。


Mozart Requiem モーツァルト レクイエム 高音質きっとこのモーツァルトの曲を思い浮かべる方が多いだろう。激しい合唱と天にまで届くような音の響き。アフマートヴァの詩にも沸々とした怒りを感じる。惨めな様を再認識させるような彼女の書き方は正しくソ連の困窮に飢えた貧しき人々の写し絵のような詩である。そしてこんな哀しき運命をどうして生きなければならないのか。彼女の巧みな伝統に結び付いた比喩はぐさりと胸に刺さる。またこれは彼女自身の人生でもあり、そこから遣る瀬無さがひしひしと伝わってくる。 

あそこでは獄舎のポプラが梢をゆらし

もの音ひとつしない そこで幾多の

罪なき生命が絶えようとしていることか……

自らの生活を通して見えてくるソ連の実情。

『レクイエム』はペレストロイカが起きるまで長らく3篇までしか公開されてなかった。そこに多大な影響力があったことは言うまでもなく、言葉の力があやふやになりつつある現代でアフマートヴァがこの姿勢を貫いたのは一見の価値があると思う。

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アフマートヴァについてまとめたRUSSIA BEYONDの記事も載せておく

詩人アンナ・アフマートワについて知っておくべき5つの事実 - ロシア・ビヨンド

スラブ文化に対する魅力 その1

スラブ文化が好きだ。こう私が声高に純真な思いで人々に告げるとみんな怪訝そうな顔をして必ず”なんで東欧が好きになったの?”と聞いてくる。開口一番疑問に徹する。当然と言えば当然なのだが、なんとも釈然としない。あの意表を突かれたような表情を私は複雑な思いで眺め遣る。それでもイタリアや、フランスが好きなんだとは言えない。やっぱりそこはスラブ文化でなければ。それでそこまで自分がどうしてスラブ文化に入れ込むようになったのか、三回に分けて書いていく。

  • 胸の高まりはひょんなことから

私が思い返すとスラブ文化に熱烈に興味を持ったのはここ数年のことだ。それまではロシアなどで使われるキリル文字を見ては独特な感じだと思ったが、そこまでだった。

ロシアってのはおっかない国だ。一国として世界最大の領土を持ったその巨塔を私は不気味に感じていた。なぜなら私はロシアといえばプーチンという情報しか持ち得ていなかったからだ。あとはロシア料理でボルシチビーフストロガノフがあること。

 他のスラブ系の国のことはよく知らなかった。世界地図が好きで立地だけ覚えているくらい。2014年頃になってウクライナのニュースが取り上げられてて、同じような国なのに争っているなんて可笑しなものだなとその当時は気にも留めなかった。

 

ある時本屋に立ち寄っていた私は、いつものように文庫コーナーへ颯爽と歩いて行って目新しいものがないかどうかじっと眺めていた。大抵安いし面白い文庫にしか目が行かなかった。一通り見て、一冊買おうと手に取ってレジ近くの海外文学のコーナーを覗いてみた。しかし、単行本で小説を買ったことなどほとんどなかった私はすぐに帰ろうかと思ったが、一冊の薄っぺらい本が目についた。

マヤコフスキー

聞いたことのないその名の雰囲気が面白く感じて疼いた。

ドストエフスキーでもなければトルストイでもない。これは何者かと、私は好奇心を胸に一冊棚から手に取ってみた。

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正面には精悍だがどこかふざけたような面持ちの芸術家風の男が立っている。この表紙絵は私の心をくすぐった。だけども中身はさらに無垢なこの偏食癖のあるイチ読書家を挑発した。

テンポよく書かれている叫びのような狂おしい詩のリズムは、私に得体のしれないものに触れてしまったという違和感を惜しげもなく押し込んできた。

すかさず値段を確認する。1000円ちょっと。だが詩集にしてはいささかお高いようにも思えた。私は果たしてこれがそれほどの値段を出すほどの価値はあるのだろうかと訝った。それに追い打ちをかけるように当時は本にお金を費やすほどの余裕がなかったことも私を惑わせた。もしこれを買うとしたらいま持っている本はお預けとなる。

悩みに悩んだ末、一先ずその日は文庫本を買って帰った。

数日後にこの本を広げていたのは言うまでもない。私は瞬く間にこの革命的な情熱を引き下げたロシアのアヴァンギャルドにのめり込んでいった。

 

 

多民族国家と民族意識の芽生えにどう向き合うか。『オスマン帝国500年の平和』を読んで

今回紹介する本は
林 佳世子著『オスマン帝国500年の平和』である。f:id:GoldenMascalese:20190703210615j:plain

嘗てアナトリア半島からアジア、アフリカ、バルカン半島までを支配し、ヨーロッパからも恐れられたオスマン帝国
彼らは西側から見ればスンナ派の擁護者でありイスラム世界の支配者と見えるだろう。しかしオスマン帝国は宗教にはあまり関心がなかった。寧ろ十字軍の方が彼らにとっておっかなく、野蛮に見えていた。それはオスマン帝国と雌雄を争った同じキリスト教ビザンティン帝国も同意見だった。
ではオスマンの統治はどうだったのかというと、正しく共存共栄の文明であった。そしてギリシア正教やそれを守る聖職者も迫害はされずにオスマンの中で生きていた。社会制度はオスマン主導でオスマン帝国に馴染むことが多くの民族にとって立身出世の第一条件となっていたが自治自体は各々の民族に任せていた。これが広大な領土を保全することができたというのは言うまでもない。
オスマン帝国の統治法は興味深く面白い。学校ではオスマンといえばイスラム世界の守護者といった感じで書かれているが、実際にイスラム世界の指導者の称号であるカリフを名乗ったのは18世紀からという説もあり、ここでは多様なオスマンの性格が見て取れる。

そんな多民族国家も数々の矛盾が訪れ、内憂外患に悩まされる日々が出てくる。特に18世紀からオスマン帝国はあるワードの出現によってさらに一層のダメージを蓄積していく。それが『ナショナリズム』である。これは諸説あり古代から存在したとされるが、洗礼された理念しては近代から出て来ている。ウィーン体制の崩壊である。これはオスマン帝国のライバル国であったオーストリアで発祥した一大市民革命運動で、やがてヨーロッパ中に広まるのだが多民族国家にとって存在自体を危ぶませるものとなっていった。彼らの共存共栄という伝統的理念は根本から否定されるのだから。
やがてスラブ民族をまとめ上げた新興国ロシア帝国がやってくる。17世紀のオーストリアが主導した大トルコ戦争により大きく領土を減らしたオスマン帝国の脆弱さをロシアは見逃していなかった。そうして続けざまにクリミア戦争が起きる。これはオスマン帝国の属国であるクリミア・ハン国の影響圏を完全に失うという失態を生んだ。
それはロシア側では『タタール人のくびき』と呼ばれるナショナリズムを煽ったスラブ人側の勝利を生んだ。
立て続けにオスマンは”民族解放”を”掲げるロシア帝国に攻められ、敗北の一途を辿っていった。最早バルカン半島に彼らの居場所はイスタンブールしか残っていなかった。もちろん目まぐるしく昨日の敵が今日は味方となるような複雑怪奇な欧州情勢に孤立していたオスマン帝国が対抗できなかったのも衰退要因の原因であるのも確かだ。
だが、オスマン帝国にとってナショナリズムは思ってもみなかった刺客だったのだろう。

やがて崩壊の一途を辿ったオスマン帝国。国家は分裂しあわやアナトリア半島の覇権まで奪われようかとしていたところ、救世主として知られるトルコ共和国の父ムスタファ・ケマル・アタテュルクが奇跡的にアナトリア世界とイスタンブールを死守した。
だが、現在のトルコではあの栄華を誇ったオスマン帝国はタブー視されている。一体何故か。著者は興味深いことを書いている。

オスマン帝国トルコ人の国ではなく、誰の国でもなかった。”

これは歴代の為政者にバルカン半島出身者がいた為だろうと推察する。
しかし、現政権の大統領を務めるエルドアン大統領はオスマン帝国復古を掲げていると聞くが、それはトルコ人中心主義の新たなオスマン像である。ナショナリズムは文化主義ともいえるオスマン帝国とは相容れない存在であり、ここにオスマン帝国がタブー視され、自国文化として認めない理由があるのだろう。

最後にナショナリズムを論じてこれを締めたいと思う。
散々ナショナリズムの悪影響らしきものを書いてしまったが、一方的に否定しても仕方がない。確かにナショナリズムは戦争の口実を作るのを容易にし、現在でも数多くの紛争を引き起こす要因となっている。
しかしナショナリズムは団結を組織的に可能とし、個々の精神に所属意識を芽生えさせる。つまり自尊心を高める要因にもなる。
そして穏健なナショナリズムといえば自国文化への愛着。つまり愛国心の養成に役立つ。
そうして他者へ寛容な姿勢を見せれば現在では貶されているナショナリズムも立派なイデオロギーとして君臨することだろうと思う。郷に入れば郷に従え。それも一理あるが私は喩えば移民となってやって来た新たな隣人が自分とは違うものを信仰していても内向的に向けているのならば、それを温かく迎え入れ他の人と同じように接するだろう。
問題はその自我意識が外へと放出されるからだと私は考える。

出直し

長らく更新を放置しており、それから数年の歳月がたってしまいました。

いっそ消そうかとも考えたのですが、何かを書きたい衝動に駆られてまたこうして書いているというわけです。

色々と弁明する事由はあるのですが、一言でいえば怠惰であった……

この三日坊主の癖は治りそうにないのです。しかし、もう一度やり直します。

今までの記事はそのままにしておきますが、続き物は出しません。もうどうやって書けばいいのか見当がつかないからです。

 

それではまたよろしくお願いいたします。

影響を受けた本と著者 三島由紀夫

何を書こうかとあれやこれやと考えていたところ、先ずは自分の好きな本を特に私の人生に深い影響を与えてくれた素晴らしい本について語るのが一番よいかなと。

ジャンルはごちゃ混ぜですが、どうしてそれを好きになったのかを語って行こうと思います。

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ブログの挨拶を兼ねた自己紹介

 

皆さま初めまして。

今日からこのブログを開設したGoldenMascaleseです。

 

まず私の自己紹介から。

私は本を愛してやまない者ですf:id:GoldenMascalese:20180506004552j:plain

本を読まない日はありません。特に、古典と呼ばれる少し古臭いものが好きで現代の作家が記した著作は殆ど読まずといった所です。

このブログも私の読んだ本の書評や私なりの考えを発信していくつもりです。

たまには本以外の話題も上げると思いますが、基本は”本”のことですので少しマニアックなブログになるでしょう。しかし普段本を読まない方にも(特に古典の作品)私の言葉で少し読んでみようという気持ちを芽生えされば僭越ながら幸甚の極みです。

短いですが、以後御ひいき願います。