哀しき数奇な人生に苦しみつつも、整然と生き貫いた女性詩人”アンナ・アフマートヴァ”『レクイエム』を読んで
ロシア二十世紀を代表した詩人といえば、マヤコフスキーとアンナ・アフマートヴァ
後々彼らが名声を馳せるようになると、批評家はそのように彼らを二極の存在として見なした。
甘い賞賛と捻くれた嫉妬紛いの批判と共に、彼らはロシア文学の文壇で知らない者はいないほどだった。
今回はアンナ・アフマートヴァの人生と作品について触れていく。
ロシアの詩人にはそんな明るい死はかなえられぬ
弾丸が翼もつ心に天の境界を開くか
しゃがれた恐怖が毛深い手で
胸から海綿のように命を絞りだす
アンナ・アフマートヴァ、はウクライナ南部のオデッサ近郊にて五人兄弟の三番目の娘として生まれた。彼女の父は海軍技師で性格は厳格であった。程なくして両親は離婚し、幼少期はその父のもとで暮らすことになるが、彼女の幼少期は抑圧的な絶対者によって幸福とはかけ離れていた。父親が退官した際にサンクトペテルブルクへ移り住む。ここで彼女は”ラシーヌ、プーシキン”の作品に触れて自身でも11歳頃から自作を始める。
しかし、父親はこれを当時フランスなどで一世を風靡していたデカダンに染まった。(要はふしだらな集団の活動に我が子がハマってしまったと考えて)
父親はひどく娘の創作活動を嫌っていた。その為彼女は本を出版する際に、父性ではなく祖父母のアフマートヴァを使い始めたのが始まりとなった。
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自由気ままな奔放さを持つ詩人との結婚
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革命の波乱に巻き込まれる文壇とアフマートヴァ
グミリョーフと事実上破局状態となった時。世界は大きな潮流を孕んでいた。
第一次世界大戦でヨーロッパのみならずアジアも含めた初めての大戦争が繰り広げられていた。帝政ロシアはセルビア王国を助ける形で参戦していたが、初の科学技術を結集した総力戦に戦況は芳しくなかった。日露戦争で負けたりと勃発前から凋落の兆しを見せていた極寒の帝国はすでに国民に対して十分な措置を施せていなかった。
日々の糧にすらありつけない市民はデモを起こしたが、戦争中で焦ったツァーリー側の軍団に無慈悲にも撃たれ死んでいく。血の日曜日事件によって国民の怒りは沸騰し、一回目の革命が起こり、帝政が倒された。
それでも戦争継続を主張するケレンスキー達に対して、ドイツからレーニンがやってくる。ボリシェビキのレーニン(赤軍)対ロシア政府(白軍)の内戦がこの最中勃発する。白軍の中にはアフリカに行っていたグミリョーフが義勇兵として参加していた。
既に1918年に正式に離婚していたアフマートヴァは新たにアッシリア学者のシレイコと再婚する。芸術家同士の結婚に苦い辛酸を味わった彼女はお堅い学者なら家庭を大事にしてくれると考えていたといわれている。
しかしシレイコはその堅苦しさがアフマートヴァにとって裏目に出た人物だった。
彼はアフマートヴァの創作活動を望まず、彼女の詩をサモワールを焚きつけるためのちり紙同然に扱った。父親に似た古い習慣から培われた男の行動に、彼女の創作意欲は低下していき1篇の詩さえ世の中に出さなくなった。
1921年短い苦しい結婚生活に別れが訪れた。彼女はまたサンクトペテルブルクで創作活動を再開する。同年共産党政権子飼いの秘密警察がグミリョーフを射殺する。
反革命的な創作活動をする作家に対する見せしめだった。
なぜグミリョーフが捕まったのか。理由は自明のことだが彼は白軍にいたにも関わらず共産主義思想に感化されて自らロシアに帰ったともいわれている。最後まで不思議な男であった。
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抑圧の時代。スターリン達による文学者大粛清
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幽かながらにもはっきりと聞こえる人民の声『レクイエム』
Mozart Requiem モーツァルト レクイエム 高音質きっとこのモーツァルトの曲を思い浮かべる方が多いだろう。激しい合唱と天にまで届くような音の響き。アフマートヴァの詩にも沸々とした怒りを感じる。惨めな様を再認識させるような彼女の書き方は正しくソ連の困窮に飢えた貧しき人々の写し絵のような詩である。そしてこんな哀しき運命をどうして生きなければならないのか。彼女の巧みな伝統に結び付いた比喩はぐさりと胸に刺さる。またこれは彼女自身の人生でもあり、そこから遣る瀬無さがひしひしと伝わってくる。
あそこでは獄舎のポプラが梢をゆらし
もの音ひとつしない そこで幾多の
罪なき生命が絶えようとしていることか……
自らの生活を通して見えてくるソ連の実情。
『レクイエム』はペレストロイカが起きるまで長らく3篇までしか公開されてなかった。そこに多大な影響力があったことは言うまでもなく、言葉の力があやふやになりつつある現代でアフマートヴァがこの姿勢を貫いたのは一見の価値があると思う。
アフマートヴァについてまとめたRUSSIA BEYONDの記事も載せておく