人生の潤いと共に

主に本について書いてます。特に文学、哲学、学術書についてです。たまにそれ以外のことを言ったり、自論を書くかもしれません。まだ始めたばかりなので記事は少ないですが、一読してくだされば幸いです。

哀しき数奇な人生に苦しみつつも、整然と生き貫いた女性詩人”アンナ・アフマートヴァ”『レクイエム』を読んで

ロシア二十世紀を代表した詩人といえば、マヤコフスキーアンナ・アフマートヴァ

後々彼らが名声を馳せるようになると、批評家はそのように彼らを二極の存在として見なした。

甘い賞賛と捻くれた嫉妬紛いの批判と共に、彼らはロシア文学の文壇で知らない者はいないほどだった。

今回はアンナ・アフマートヴァの人生と作品について触れていく。

 

ロシアの詩人にはそんな明るい死はかなえられぬ

弾丸が翼もつ心に天の境界を開くか

しゃがれた恐怖が毛深い手で

胸から海綿のように命を絞りだす 

 

 

f:id:GoldenMascalese:20190718093454j:plain


アンナ・アフマートヴァ、はウクライナ南部のオデッサ近郊にて五人兄弟の三番目の娘として生まれた。彼女の父は海軍技師で性格は厳格であった。程なくして両親は離婚し、幼少期はその父のもとで暮らすことになるが、彼女の幼少期は抑圧的な絶対者によって幸福とはかけ離れていた。父親が退官した際にサンクトペテルブルクへ移り住む。ここで彼女は”ラシーヌプーシキン”の作品に触れて自身でも11歳頃から自作を始める。

しかし、父親はこれを当時フランスなどで一世を風靡していたデカダンに染まった。(要はふしだらな集団の活動に我が子がハマってしまったと考えて)

父親はひどく娘の創作活動を嫌っていた。その為彼女は本を出版する際に、父性ではなく祖父母のアフマートヴァを使い始めたのが始まりとなった。

  • 自由気ままな奔放さを持つ詩人との結婚

    f:id:GoldenMascalese:20190718124458j:plain

 アフマートヴァは大よそ貧相なまだ力を出し切れていない芸術家諸君同様に、最初は売れない惨めな生活をするのだろう。しかしそうはならなかった。
それは彼女が同業者の詩人と仲が良かったのが大きな要因といえる。
夫のニコライ・グミリョーフは新進気鋭の新派”アクメイズム”の中心人物として活動していた。この派は当時ロシア帝国を席捲していた象徴主義を批判的に見た考え方である。象徴主義が空想的でわかりずらい神秘主義の傾向を強めたのに対して、彼らのアクメイズムは視点を自らの世界に置いて、古典から学んだ技法を取り入れた。
彼女の作品にもロマン主義のような兆候が素朴な空間で表現されている。
第一詩集『夕べ』は多くの新進気鋭の作家に賞賛され、好意的に迎えられた。ここからロシア文学では銀の時代と呼ばれる新たな黄金時代がひらける。
しかし、夫のグミリョーフはこれを快く思っていなかった。彼は同じアクメイズムの同士ではあったが、あくまで彼にとってアフマートヴァは創作意欲を掻き立てるミューズでしかなく、そのミューズ自身の語りには好意的なまなざしが向けられることはなく、
突如アフリカへ旅立ってしまう。『夕べ』はそんな冷たい仕打ちをする夫に対しての悲恋を赤裸々に嘆いているのである。
  • 革命の波乱に巻き込まれる文壇とアフマートヴァ

グミリョーフと事実上破局状態となった時。世界は大きな潮流を孕んでいた。

第一次世界大戦でヨーロッパのみならずアジアも含めた初めての大戦争が繰り広げられていた。帝政ロシアセルビア王国を助ける形で参戦していたが、初の科学技術を結集した総力戦に戦況は芳しくなかった。日露戦争で負けたりと勃発前から凋落の兆しを見せていた極寒の帝国はすでに国民に対して十分な措置を施せていなかった。

日々の糧にすらありつけない市民はデモを起こしたが、戦争中で焦ったツァーリー側の軍団に無慈悲にも撃たれ死んでいく。血の日曜日事件によって国民の怒りは沸騰し、一回目の革命が起こり、帝政が倒された。

それでも戦争継続を主張するケレンスキー達に対して、ドイツからレーニンがやってくる。ボリシェビキレーニン赤軍)対ロシア政府(白軍)の内戦がこの最中勃発する。白軍の中にはアフリカに行っていたグミリョーフが義勇兵として参加していた。

既に1918年に正式に離婚していたアフマートヴァは新たにアッシリア学者のシレイコと再婚する。芸術家同士の結婚に苦い辛酸を味わった彼女はお堅い学者なら家庭を大事にしてくれると考えていたといわれている。

しかしシレイコはその堅苦しさがアフマートヴァにとって裏目に出た人物だった。

彼はアフマートヴァの創作活動を望まず、彼女の詩をサモワールを焚きつけるためのちり紙同然に扱った。父親に似た古い習慣から培われた男の行動に、彼女の創作意欲は低下していき1篇の詩さえ世の中に出さなくなった。

1921年短い苦しい結婚生活に別れが訪れた。彼女はまたサンクトペテルブルクで創作活動を再開する。同年共産党政権子飼いの秘密警察がグミリョーフを射殺する。

反革命的な創作活動をする作家に対する見せしめだった。

なぜグミリョーフが捕まったのか。理由は自明のことだが彼は白軍にいたにも関わらず共産主義思想に感化されて自らロシアに帰ったともいわれている。最後まで不思議な男であった。

20年代に入ると異なる潮流を持つ者としてロシア・アヴァンギャルド未来派と称される前衛的な作風が注目される。特に最も注目されたのがマヤコフスキーであり、全く新しい唯我独尊のスタイルの彼と、古典芸術に根差した伝統を継承するアフマートヴァは批評家の格好の的となった。

f:id:GoldenMascalese:20190718124750j:plain

マヤコフスキー自身はアフマートヴァの実力を認めていたものの、未来派は伝統とは決別する姿勢を採っていたのでしばしば彼女を批判していた。
しかし多くの詩人のけたたましい勢いも為政者の前では空前の灯と化す。
スターリンの台頭である。共産主義治世下では反乱分子は排除の対象だった。
マヤコフスキーは30年に不審な死を遂げる。理解者であったマンデリシュタームは流刑となり、エセーニン、ツヴェータエワ、ブロツキー、パステルナーク。詩人ではないがゴーリキー、ナブコフなど挙げ連ねることのできない数多くの文学者が当局によって活動を制限させられた後に、死、流刑、国外逃亡を余儀なくされている。
国内に留まり生き残ったのはこの中ではブロツキー、パステルナークと彼女の三人しかいない。
アフマートヴァもまた厳しい環境の中創作活動に身を粉にして挑んでいた。
  • 幽かながらにもはっきりと聞こえる人民の声『レクイエム』

長い前置きになったが、ようやく作品に触れていく。『レクイエム』は彼女自身の鬱憤であり全人民の代弁でもある作だ。
そう今日では評されている。”レクイエム”とは元をたどればラテン語で”安息を”という意味で死者を慰める鎮魂歌である。


Mozart Requiem モーツァルト レクイエム 高音質きっとこのモーツァルトの曲を思い浮かべる方が多いだろう。激しい合唱と天にまで届くような音の響き。アフマートヴァの詩にも沸々とした怒りを感じる。惨めな様を再認識させるような彼女の書き方は正しくソ連の困窮に飢えた貧しき人々の写し絵のような詩である。そしてこんな哀しき運命をどうして生きなければならないのか。彼女の巧みな伝統に結び付いた比喩はぐさりと胸に刺さる。またこれは彼女自身の人生でもあり、そこから遣る瀬無さがひしひしと伝わってくる。 

あそこでは獄舎のポプラが梢をゆらし

もの音ひとつしない そこで幾多の

罪なき生命が絶えようとしていることか……

自らの生活を通して見えてくるソ連の実情。

『レクイエム』はペレストロイカが起きるまで長らく3篇までしか公開されてなかった。そこに多大な影響力があったことは言うまでもなく、言葉の力があやふやになりつつある現代でアフマートヴァがこの姿勢を貫いたのは一見の価値があると思う。

f:id:GoldenMascalese:20190718093704j:plain

 

www.amazon.co.jp

アフマートヴァについてまとめたRUSSIA BEYONDの記事も載せておく

詩人アンナ・アフマートワについて知っておくべき5つの事実 - ロシア・ビヨンド